イライラしたり落ち込んだ時、よく仕事を抜け出し、近所のお寺で昼寝をした。寺院の屋根と、ぽかんと広がる青空を眺めていると、全ては無のような、全ては他人事であるような、そして、全ては行き着くところに辿り着くような、諦観と安らぎが胸に宿った。
お寺や仏像に接することにある種の「郷愁」を感じてしまう。今回のインタビューにもあるように、仏教というのは、多くの日本人の心象風景に「すでに」あるものだろう。
無線LAN配備の寺院内カフェテラスをオープンし、築地本願寺で開催したフリーライブで2千人を動員、ブログは書籍化されるなど、松本圭介は新しい僧侶の形を模索し発信し続け、注目を集めている。人生の喜びも悲しみも何千年も見つめ続けた釈迦の教えと仏。そこにいわゆる現代的な若者が身を投じ、仏教の伝え方を軽やかに再定義しようとしている。
宗教というものに興味を持ってはいても、腰が引けている、そんな自分たちの世代にとっての宗教とは。21世紀の日本人にとっての仏教とは何なのか。そんなことを彼に訊いてみたいと思った。
でも、本音を言えば、真っ当な答えなど無くともよくて、それを1人の人間として、どう探し、どう等身大の自分に引き寄せ、どうプロデュースするか。その過程に僕は興味があり、まさに松本圭介はそういう人だった。内なる静かな宗教心。僕らもまた、恒久の歴史の中で、無意識にそれを受け継ぎ、リファインし、渡していく過程にいるのだ。
(TS副編集長・米田知彦)
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イベント『誰そ彼』とオープンテラス
米田:先日、ここ(東京・神谷町の光明寺)で行われたイベント『誰そ彼』(たそがれ)を体験させてもらいました。DJあり、バンドあり、食事ありでとても心地よかったです。音響系とかアンビエントとか、お寺で聴くと気持ちいいですね。
松本:そうですね。それが『誰そ彼』の始まりだったんですよ。お寺でアンビエントが聞きたいよねって言って。
米田:配られたタイムテーブルに日暮れの時間もちゃんと入っていて、仕込みが上手いなあと。
松本:あれは全然ディレクションしてないですよ。
米田:あ、そうなんですか?
松本:最初は、みんなで集まって「いつやろうか?」って決めますけど、始まってからは勝手にそれぞれが持ち場についてやっているんです。スタッフすら決まってないんですよ(笑)。大丈夫かなっていつも思うんですけど何とかなってます。
米田:本堂がいっぱいになるくらいお客さんが来てましたね。
松本:そうですね、230人くらいですか。ホームページと、今回はJ-WAVEで告知してもらいました。イベントってやる事自体が目的化しちゃうとつまらなくなっていくと思うんですが、『誰そ彼』はあまり堅苦しく考えず、仏さまの許す限り、何となく続けるというスタンスでいいのかなと。
米田:京都だったらそういうイベントいっぱいあるんですよね。東京でこういうのはあんまりないから新鮮でした。学生時代にイベントのプロデュースをやったりしてたんですか?
松本:ときどき仲間で集まってクラブイベントをやったりしてまして。それが意外なところで役に立ったというか。
米田:オープンテラス(光明寺の本堂を利用して平日昼間に開かれたオープンスペース。お坊さん手作りの和菓子やお茶も用意されている)を始めたきっかけは?
松本:2005年のGW明けに始めたんです。それまで『誰そ彼』とかのライブイベントなんかはやってたんですけど、そういうイベントに行くのと、普段ふらっと立ち寄るって事とは違うんですね。イベントでせっかくお寺に行くっていう事を体験した人が、もう少し日常的に立ち寄れる場所を提供したいな、なるべく平日空いている場所を提供したいなと思って。お寺なのでカフェ店舗ではないですけど、気軽に誰でも入れるカフェ的なスペースを作って、より気楽に、思い立った時に来れるような場所があればいいなと思ったんですね
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宗教に対する素朴な疑問
米田:著書の『おぼうさん、はじめました。』を読ませていただきましたが、ドリアン助川さんの深夜番組で、レッチリの詩がニーチェの影響を受けている話に興味を持った、というくだりがありましたね。やっぱり中学、高校ぐらいの頃に、思想とか哲学に関心を持ったのが原点ですか?
松本:『金髪先生』ですね。あの回は印象にあります。誰でも、子供の頃に素朴な疑問、死の事を考えたり、「なんで生きてるんだろう」って考えたりすると思うんです。僕も小学校の頃、そういう疑問が色々ありました。家の近くに祖父のお寺がありましたんで、遊びに行くとおじいさんが本を貸してくれて、それを読んだりして。それが段々と幅がでてきて、高校の時には西洋哲学の翻訳を読んだりしていました。
米田:その時読んだのはやはりニーチェ?
松本:読みましたね。先生に嫌がられました(笑)。「なんでニーチェなんか読んでるんだ!?」って。
米田:ニーチェ読んでる高校生が従順なわけないですからね(笑)。ご出身は北海道のどちらですか?
松本:小樽ですね。小樽潮陵高校というところです。
米田:その後、東大哲学科に入るわけですけど、入ってみてどんなところでしたか?
松本:いやあ、みんな結構勉強してましたね。
米田:そりゃ、最高学府ですから(笑)。
松本:東京に来てみると、あんまり大学に行かなくなってイベントをやったり、WEBに興味があったんで独学で勉強して、多少のプログラムはできるようになりました。一時期はプロバイダー、ISPで働いたり、あとは、政治家の事務所にいて、国会議員のWEBサイトを作ったり。WEBそのものにも興味があったんですけど、その先にやっぱり就職があるので、それまでに色んな世界を見ておきたいなと。少なくとも興味があるところは知っておきたいというのがあって、イベントだと広告の仕事も覗けたり、政治もかなり面白かったですね。とにかく色んなものを見ておきたい、そういう中で、自分が行くところを探していました。
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そんなにやりたいならお坊さんになった方が早いんじゃないか
米田:松本さんは就職先が僧侶になるって事だったわけですが、僕なんかも、ふと、“ちょっと坊さんになりたいな”、みたいな事を思ったりするんですよ、瀬戸内寂聴さんじゃないですが(笑)。
松本:意外とそういう風に思っている人は多いんじゃないかと思います。だけど。実際になる人は少ない。でも、なってみる人がいてもいいんじゃないかと。
米田:東大哲学科卒の選択肢が僧侶って人はいるんですかね。
松本:いや、ほとんどいないですね(笑)。進路報告書みたいなものがあるんですが、官庁とか企業の名前とか並んでるんですけど、僕は「その他」でした。
米田:その時は電通に入りたい、みたいに思ってたんですか?
松本:広告代理店もいいかなあって思ったり、政治業界も面白いと思ったんですが、例えば、広告代理店に就職する事を想像して、どのぐらいまでいったらどれくらいの仕事をしてって考えたら、いつかお寺のPRをやれたら面白いんじゃないかなと思ったんですね。何を考えてもお寺に結びついていっちゃって、そんなにやりたいならお坊さんになった方が早いんじゃないかと。
米田:著書にある、松本さんの「仏教という、長い歴史の中で積み重ねられた膨大なコンテンツに惹かれた」、という表現が凄く面白くて。
松本:始めの僧侶になるっていう入り方がちょっと屈折してるわけじゃないですけど……
米田:代理店的ですよね(笑)。
松本:かなりコンテンツ志向なんですよ。
米田:最初にご挨拶させていただいた時も、「自分は仏教コンテンツプロデューサーです」とおっしゃってましたよね。
松本:別の言葉で言えば、布教と言いますか、誰だって自分が好きなものはみんなに知ってもらいたいと思いますよね。そのアプローチの仕方として、外側からではどこまで扱えるかは限界があるんですよ。
米田:単なる紹介になってしまう。
松本:仏教界の外側にいては中に踏み込めない。お坊さんたちがどう考えているのかは分からない。それが分からないまま、お坊さんの側から出てきたものだけを発信していくというのでは、いつまで経っても本当の意味での、仏教の広報宣伝活動はできないんじゃないか。まずは中に入って、彼らが何を考えているのか、どういう行動基準で動いているのかを肌で感じないと分からない事があるだろう。そのためには自分自身がまずお坊さんになってみなくてはいけない、という発想です。
米田:なるほど。
松本:いったん中に入ってしまえば、「仏教ではこんな事はしていいんですか?」と一般の人から聞かれても、「これはしてもいい、これはしてはいけない」と言えるわけです。自分の価値観というのではなく、ある刺激に対するお坊さんの反応、仏教界のコードが分かってくる。そのコードを自分が理解して初めて、伝統仏教教団の看板を背負って活動ができるというところまで来られるわけです。そのときコンテンツとして外に道が開けてくるんじゃないかと。
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仏教というコンテンツ
刀田:WEB『彼岸寺』(のビジュアルもすごく面白いですね。4、5人の僧侶の方々とやられてるんですよね。
松本:そうですね、最近は1人では手が足りなくて、数人の僧侶で分担しています。これも、仏教コンテンツの実験場というか、面白そうな企画、書き物でも映像でもいいし、音声、ポッドキャストでもいいし、放り込んで面白そうだと思ったらどんどんやってみようと。
米田:法話とかをポッドキャストする?
松本:ポッドキャストやる事自体は簡単なんです。法話ポッドキャスティングも幾つかあるんですが、結局、問題はコンテンツで、中身が聞いて面白いものじゃないと意味がない。それを集めないとしょうがないので、どうしようかなと。
米田 ブログは、最初はどんな反応でした?
松本:最初はそんなに知られてないので、出会った人、名刺交換した人なんかにメルマガを送ったりしてたんですけど、最初は実はけっこうお坊さんが見てたんですね。先輩とか。
米田:いわゆる同業者ですね。お坊さんも他人のブログを見ていると。
松本:基本、見ていると思いますね。
米田:続けるうちに反響が変わりました?
松本:そうですね、ブログもホントここ数年ですよね。私はMovableTypeが出始めたころから使ってましたんで、割と早いと思うんですが、お坊さんたちもブログでこういう事ができるという事で影響を受けて、活動の幅を広げる1つの刺激にはなったかなと。
米田:後は松本さんが完璧な英語で話せたら、インターナショナル・コンテンツになりそうですが…その悩みも本に書いてましたけど。
松本:全くそうなんですよ、英語やらなきゃなあと思っているんです(笑)。
米田:外国人の方とも交流は凄くありそうですね。
松本:あるんですが、結構いきおいで喋ってしまって、細かいコミュニケーションまでは行けないんですよ。
米田:でも外国人の方って、どんどん質問してきませんか?
松本:そうなんですよ、あんまり難しい教義とかまで話せなくて、つたない英語で何となく喋るんですけど。歯がゆいんで、TOEICとか頑張らないと。神谷町の場合、外国人ビジネスマンも多いんですが、皆さん日本語が巧くてですね(笑)。
米田:日本発のコンテンツとしては、仏教、お寺、お坊さんっていうのはいいですよね。
松本:あんまり手をつけてないところもありますし。最初はそう言っても分かってもらえなかったんですけど、1つ、本という形になったりして、段々伝わってきました。
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問いを持ち続け、何とかやっていくのも仏教的な生き方
米田:松本さんって、本の帯にある「坊さんは職業じゃねぇ、生きざまだ!!」という台詞のパンクな部分と、プロデューサーとしての非常に冷静な部分の両方がある、という印象を受けたんですが、どうです?
松本:「職業じゃねえ、生きざまだ!」というのは正論なのですが、今は職業でもあるんです。お寺の収入は基本的にお布施からですので、お金との付き合い方も難しいですが、ダブルスタンダードでいいと思っています。どっちかにケリをつけようとすると、できなくなる事もたくさんありますので。どっちが本当なのかという事よりも、仏教の「中道」というところに通じるかもしれないですが、どっちが本当だろうかと悩んで、問いを持ち続け、何とかやっていくのも仏教的な生き方という事でいいのかなと思ってます。
米田:「宗教とは?」「死とは?」と訊かれても、いち個人、いち僧侶としては、「それは分かりません」と、その都度考えながら答えるしかない、とも書いてましたね。松本さんがプロデューサーでありたいっていうのは、自分の自己実現のどういう部分から発せられているんでしょうか。仏教の良さを分かってほしい、というところですか?
松本:それはやっぱり基本にありますね……あ、すみません、足が痺れてしまいました。
米田:うはは(笑)。あと、多くの人とコミュニケーションをとりたいというのがありますよね。
松本:もっともっと個性のあるお坊さんがいますので、表に出していきたいです。例えば、テレビにとあるお坊さんが仏教についてのコメントを出したりコーナーを持ったりして、その後消えていく、っていうのは仏教にとってはむしろ不幸な事かもしれません。ブームがあれば、その後の落差が激しいですから。それよりは仏教枠というのが常にあって、今年ナンバー1だったお坊さんは誰か?ぐらいのところまで持っていきたいんです。
米田:M.V.B.(Most Valuable Buddhist)みたいな(笑)。でも、例えば松本さんが80歳まで生きれば、あと50年くらいやれるコンテンツなわけですよね。半世紀ぐらい経てば変わるような気がします。
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外に行くと初めて分かる日本人の仏教観
松本:さっきも出た海外向けって事なんですけど、やはりまだ日本の中だけ見ていると、仏教が秘めている事って分かりにくいんです。外に行くと初めて分かる。海外に行くと宗教は何だと訊かれて、無宗教って答えると、すごくバカにされたりするじゃないですか。
無意識にやってるんですよね。無宗教って言うけど、日本人はほんとに熱心にお墓参りをしている。無自覚というか。それはそれでよくて、決して宗教的な感性の低い人たちではないと思うんです。それどころか、定義付けをせず、なんとなく宗教的感性を持っていられるって事は凄い事だと思うんです。それをポジティブに伝えていくべき事だと思います。
今でこそお寺は法事に葬式という感じになってますけど、全然そんな事はなくて、仏教というのは色んな事に染み渡っているわけです。その時に、ふと気が付く仏教の持っている奥深さがあります。
仏教を布教すると考えた時、自分としては“間違いのない商品”であると思っているんです。価値のないものを高く売るって事は決してしなくていい事だし、お坊さんの今やってる布教って何かというと、無宗教国家日本の無宗教日本人達を仏教徒に改宗させる事かって言うと、そういうではないです。じゃあ何をやっているかって思ったら、お坊さん達も無自覚なんですけど、何かを思い出させようとしてるところがあるんじゃないかと思うのです。
例えば、手を合わせた時にふと思い出す事があるだろうし、亡くなった方を前にして自然と手を合わせる行為が染み付いている。そういうところを通じて何かを思い出させようとしている。
「宗教としてこれを持ちなさい」って言ってるんじゃなくて、「あなたの心の中には既に種が宿っているんですよ」みたいなアプローチだと思うんです。そういう風なスタンスでいられるっていうのは、伝統がそこまで培ってきたものだと思うので、大事にしていきたいなと。
例えば、「何とか宗教のどこどこ支部がオープンテラスというのを始めました」って言ってもあまり話題にはならないと思うんです。でも、光明寺でこんな試みをやってますっていうのはまだ話題に上がる。それって、今仏教がどういうポジションにあるのかと考えた時に、「宗教だと思われてない」っていうのがあるんです。
米田:「宗教」と呼ぶにはあまりもライトですよね。
松本:お坊さんもそうなんです。お坊さんが物件を探しに不動産屋さんに行くと、物件情報の紙に「宗教お断り」とか、「宗教関係者お断り」とか書いてあるんですけど、そこで、「うちはお坊さんだからダメですかね?」って訊いたら、「いやいやお寺さんは宗教じゃないですから」って。
全員:(笑)。
松本:例えば、オウム真理教の人がどうしてオウムに走ったかという話で、「お寺はいち風景に過ぎなかった」っていうようなコメントがあったんです。確かにそれでお坊さん達は「いち風景に過ぎないとは何たる事だ!純然たる宗教だ!」って怒ったりするんです。確かにそうなんですが、その風景であるという意味をもっとポジティブに考えてもいいと思うんです。
それが本当に今、この日本で言われる文脈としての宗教に成り下がった時に、初めて仏教は風景でもなくなり、何かを思い出させる布教など意味を為さない、本当の無宗教国家になってしまう。でも、そこまでまだいってないはずなんですよ。
米田:そうですね。そういう捉え方は初めて聞きました。
松本:日本人は皆、そこまで行きたいと思ってないと思うんです。でも、それをどういう風にしたらいいのか、その方法をみんな考えているというか。そういう方向をみんな待ち望んでいるんじゃないでしょうか。
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風景の中に既にある仏教
米田:オウムじゃないですけど、多分これほど風景の中にお寺とか神様とか仏様とか、馴染んでる事に無自覚な国民もいないと思うんです。しかし、特に若い人は、ずっと宗教心とか、自分を越えるものとか、大きな力とかに興味はある。さらに、そういったものに対して、自分から何かやりたいという気持ちもあるのだけれど、この前のフランスの暴動じゃないですが、何か強い力で自分達が先導していくって言う風にはならずに、自分の奥底には激しいものがあったとしても、表面的にはゆらゆらと浮遊している。
ここでのイベントでも東京のど真ん中のお寺にDJが来て、境内に女の子とか若い子とか自然に入っていく。仏像やお寺、神社なんかは、癒しの対象として既に定着してるし、実際に癒されるという実感もある。みんな好きだって言いますよね。それを悪いとは決して思わないし、僕自身、仏像だとか寺院は大好きです。でも、それはやっぱり日本的な宗教との付き合い方であったり、日本人の心のあり方なのかなと思うんですね。
一神教じゃないですからなんでしょうが、ある種の激しさがない、っていうのは、“突きつめない良さ”だと思うんです。日本人は原理主義的には絶対にならない。そういう現状を松本さんのような人がポジティブに捉え、ポップに伝えてくれたらいいな、という風にイベントを見て思いました。
松本:一神教的な考え方ではなく、曖昧なままで置いておくっていうのは 言い方を換えれば、「自分の思考の限界を知る」というか、「その先は考えてもしょうがないだろう」というものを、どっかで“そのままにおいてしまう”という事で、結構大事な事なんです。
米田:いわゆる、他力本願ですよね。
松本:他力…そのままのはたらきを受け入れていくという事ですね。だから、何でも人間のレベルで分ろうとすると、しょせん人が考える事ですから、イコール自分って事になっちゃいます。それを余りに信じすぎると、それを信じた先に、その責任を神に転嫁してしまったり、神の名のもとに全て行う、みたいな感じになると思うんです。
そういった、自分が信じる神的なものを信じ過ぎないという事、自分が信じられるところよりもっと凄いところにあるんだという風に捉えるのって大事なんじゃないかって思うんですよね。
米田:ところで、松本さんのところに若い人からのお悩み相談とか来ますか?
松本:それほど来ませんが、イベントも、お客さんとスタッフというくくりでもなくて、一緒に作っていく場所という感じなんです。本当に単純に友だちになっていく、そういう中で時々「お坊さんとはどういうものなのか」というような話もするわけです。
しかし、悩みを聞くというのは、人間関係がベースにあって初めてその先に行けるようなもので、自分が全く知らない人が話すのを、みのもんたさんみたいに答えられるかっていったら、それはちょっと自信がないですね。
米田:あくまでそれは相談者と松本さんが向き合わないとダメだっていう事ですよね。不特定多数の相談にのるような事はできないですね。
松本:そうですね。占い師でもないですし(笑)。
米田:我々の日常の風景にある仏教って懐かしいものではあるんですが、『誰そ彼』では自分の中にすーっとお寺や仏様が入ってくる。それは、イベントを通して、仏教というものを、松本さんみたいな人が再定義してくれているからですね。若い世代も、松本さんたちの新しい試みに触発されて、仏教とかお寺っていうものを自分の中でまたさらに再定義すればいいなという風には思いました。
松本:でも、それは外からじゃ出来ない仕事なんです。お坊さんになってからじゃないとできないんですね。別に抜け道を探してるとかそういう事ではなくて、「一体お寺とは本質的にどういうところなのか?」っていう軸をぶれないようにやっていきたいとは思っています。
だから単なるイベントの会場みたいになっちゃったらつまらない。それでは公民館でもいいわけですから。お寺だからこそやるべき事っていうのを常に意識していたいなと思います。

